王様の耳はロバの耳

 ↑ もう考えるのメンド臭いし、記念の意味もかねてこのまんま名前にしてしまおうかなと考えている。モー娘みたいだし。


 教室を休止にして3年以上、仕事先もエースの養成所もコロナ対策が大変すぎて、自分の教室の方まで全然アタマが回らなかった。変化への対応が苦手なおじいさん。

 最近ようやく「制限」にカラダや気持ちが慣れてきたのと、対策してくれているフリースペースが増えてきたって事で、なんとなく環境が揃ってきた感アリ、そろりそろりと再開への準備を始めている。

 詳細は極秘ながら、以前から考えていた「完全個人教室」への移行はマスト。それを前提にして「自動予約」と「自動納付システム」を構築中……って、コレがもうややこしくてややこしくて。

「個人の声優教室」なんて他に無いから、相当数用意されているテンプレートのどれにもうまく当てはまらない。他の職種で組み立て始めてはぶつかって最初からやり直しの日々……

「個人の声優教室」って ヨガ教室? 歯科予約? 整体……?

 結局「カウンセリング」が一番近いみたいで、現状それでかなり先に進めてはいるのだけれど、まだまだ油断はできない。合ってるかな? 合ってるかな……?

 こっちもインボイスはキツイなあ……

近所に買い物に出たら、いつもはせいぜい1人か2人しかすれ違わないマーケットまでの道が、気をつけないとぶつかってしまうくらいの人出である。その様子を見た途端に「ロイコクロリディウム」に寄生されたカタツムリの目が浮かんできた。

無発症に見える感染者も、実は「人混みに出たい、非感染地域に出かけたい」という症状を呈しているのである。それが奴らの繁殖システムだとしたら……

 妻は数年前まで「クラヴマガ」と言う格闘技をやっていて、その練習で首の筋を傷めた事がある。それまで名前しか知らなかった「ステロイド剤」がぐっとリアルな存在になったのはその時だ。単に効いたという話ではない。うっかり服用中に旅先で酒を飲んで、激しい副作用でエラい事になってしまったのだ。

 深夜、隣の妻がうなり始めたと思ったら急にトイレに駆け込んで嘔吐。そのまま朝まで嘔吐嘔吐嘔吐……。翌日の予定は全て取りやめにして昼過ぎまで起き上がる事ができなかった。


 それ以来、「効果は大きいけれどちょっと覚悟のいるクスリ」というのが私の「ステロイド剤」に対するイメージだった。で、いざ自分が服用する事になってみたら?

 やっぱり用法と用量の厳密さは市販の胃薬の比ではなかった。

 今回の服用期間は1週間。一定期間以上服用し続けると効かなくなったり副作用が出たりするらしい。用量は1日2回。全部で12回の服用タイミングを3回に分けて、2日に1錠ずつ量を減らしていく。

 副作用としては、炎症を引き起こす場合がある。酒と組み合わさると胃炎を人起こしやすい、……って、そういう説明はちゃんと受けていただろうに、よくもまああんなに酒飲んだもんだ我が妻よ。


8月13日、夕食後から服用開始。

  ……でもそれだけ。

「闘病」と言うと響きはカッコいいのだが、今回の場合、正しく薬を飲み続ける以外にやる事が無いからすぐに悶々としてくる。あふれる戦意に対してやれる事が少な過ぎて、何だか心のバランスが取れないのである。で、サボっていた筋トレを再開してみたりして泡立つ気持ちを何とか逃がしてやる……  あ、そうだ。

 折角だからここで「声帯結節」に良い事良くない事をまとめておきましょう。


- 良くない事 -

 断トツに良くないのは「咳」「咳払い」です。

「咳、咳払い」とは、肺に気圧を掛けながら閉じた「声帯周辺」を急激に開いて激しい空気の流れを作り、喉に入った異物を吐き出そうとする反応なのですが、その激しさゆえ、同時に「声帯」にもダメージを与えてしまうのです。

 私の「結節」も、一旦「気管支喘息」の症状で激しい咳が続いたために生じてしまったようです。

 でも「風邪」をひいてしまったら自分の意思でエイッと止めるワケにもいきません。そこでクッションになってくれのが「湿りけ」なんだそうです。


- 良い事 -

 ですから「湿り気」を与えるのが良いって事になります。 「喉に湿り気」と言ったら?

 そう! 「吸入器」です。

「声帯結節(せいたいけっせつ)」とは?

 大声を出し続けたり、無理のある発声でしゃべり続けると、声帯の粘膜が変質して発声に支障を生じるようになる症状である。「歌手」や「浪曲師」に患者が多かった事から「謡人結節(ようじんけっせつ)」と呼ばれていた時代もあったと聞く。  

  病変の様子は、

 その時の先生の説明が一番わかりやすかったのでそのまま載せておこう。

「つまりですね、本来イカの刺身みたいにふにゃふにゃグヨョグニョのはずの粘膜が、振動のし過ぎで表面の水分が抜けて、スルメみたいになっちゃったと……」

 なーるほどスルメね。上手い事言うなあ……って、スルメは水に漬けたってイカ刺しには戻らないじゃないですかあ!

「そうですね、放っておいて治る人もたまにいますが長く掛かります」

 私も「声」を売って生きてきた人間である。仲間に「声帯結節」や「ポリープ」の1人や2人いなかったわけじゃない。だから日頃から無茶な発声や出し過ぎには十分注意していたのである。しかし、まさか、「激しい咳」で声帯にしゃべり過ぎと同じ負担が掛かって結節になる場合があるとは思わなかった。

 夜寝ている間じゃどうしようもないよー。


 で、先生が提示してくれた治療の段取りはこうだった。


 まず「投薬」。いわゆる「ステロイド剤」を投与して様子を見る。

 薬の効き方は体質で個人差があるので、効果の出方を見てから3つの選択肢……


1.あきらめてだましだまし

 声が出ないワケではない。現状のままでもほぼ普通にしゃべれるし何とか仕事もできる。だから多少の不自由を我慢しつつ、だましだまし自然治癒の可能性に賭ける。


2.局部麻酔で小手術

 鼻から内視鏡を入れて、喉仏のちょい上くらいから気管内まで注射針を突き通す。内視鏡で照準を定め、注射で直接患部にステロイド剤をぶっかける。ホントに先生は「ぶっかける」って言った。


3.全身麻酔で切除手術

 薬が効かないようなら、設備のある大きな病院に転院して全身麻酔の切除手術。「切る」と言うよりも削り取る感じらしいのだが、2泊3日の入院。術後数日から数週間ほどの「絶対無言」……

 ……むーんんんん、何だか頭の中がムンクの「叫び」 みたいになってきたよ。


 私は「外科処置」が大好きだ。ここまでの半生、足のアザも切り取ったしアレルギー性鼻炎も焼き切った。患部を取り去って治る物は全て取ってきたのである。しかし今回ばかりは、切った後の影響がいかにも大き過ぎた。[3]を選んだらどれくらいで仕事に復帰できるのか想像もつかない。ゆえに迷いが生じた。

「とりあえずお薬を飲んでみてください。決めるのはそれからでも……」

 こうして「声帯結節」との最初の戦いが始まった。

(続く) 

「新宿ボイスクリニック」はJR新宿駅を新宿区役所脇の出口から出て、靖国通りを花園神社方向に3、4分歩いた所にある。実に近い。この隣にあるビルは十数年前に結婚した時に写真を撮ったスタジオがあるビルダから妙になじみ深い場所でもある。確かあの時も近いからという理由だったような気がする。

 お決まりの初診手続きを終え、そこそこの待ち時間で診察室に呼び入れられると若い先生が待っていた。

「はい、どうなさいましたー?」

 一瞬「しまった」と思った。いや大した問題ではない。若くて小柄な先生が「八嶋智人」みたいな感じだったと言うだけの話である。後で考えたらメガネが目立っていただけでそんなに似てもいなかったのだが、ノリの軽さがあんな感じだった。

 普通だったらそれが「親しみやすさ」に通じたのかもしれないが、生活に関わる症状で三院を渡り歩いてきた私はとにかくナーバスになっていた。コミュニケーションしづらいくらい無愛想なドクターXに出て来られても困るが、その時の気分としてはなんて言うか、もっと落ち着いた威厳が欲しい気分だったのである。

「実はこれこれで……」

「じゃあ見てみましょう」

 何はともあれ「ストロボ・スコープ」である。「どうせ腫れてるのがわかる程度なんじゃないか」と思いつつ、撮られる事に慣れてきた自分を感じる。「あーーーー」と発声しながらも、撮影の瞬間に「おえっ」となるタイミングを微妙に外せるようになっていた。映った画像も「T診療所」の時よりはやや鮮明に見えた。

 ……と、発声中の動画が映った途端、先生が画面に顔を近づけた。

「ん? ……ほー、ははあ」

「なにか?」

「声帯の表面がちょっと、異常と言えば異常な……」

 一応「声の仕事」をしている人間だから、「声帯の異常」に関しては若干の知識がある。「ポリープ」だったらもっとはっきりと声がおかしくなる、としたら……

「それはもしや声帯結節ってヤツですか?」

「そうですねー、結節と言って良いでしょうねー」

 なんで先生がそんな煮え切らない答えになってしまったのかと言うと、私の「声帯結節」がちょっと変わっていたからだった。

「声帯」とは、2つの粘膜がV字型に組み合わさった器官である。そしで「声帯結節」とは、普通はV字の指で言うと根元の方の両側にできる物なのだ。ところが私の場合は異変が片側だけ。しかも普段はスコープから見ると「ちょっと裏」にあって、声を出した時にのみやや前に表れるという、何とも半端な状態だったのである。

 忙しい「T診療所」では見つからなかったはずだ、と、ちょっとフォローしておこう。

 ともあれ、

 半端だろうがなかろうが、結節しているからには「声帯結節」である。

「病名」が判明して、ついに戦う相手が見えてきた。

(続く)

 振り返ってみれば、ちょっと「原因」にこだわり過ぎていたかもしれない。

 もちろん「原因」を叩くのが病気との戦いの基本ではあるのだが、今回の場合は未知の症状の原因特定に手間取っている間に、いたずらに事態を悪化させてしまったような気がする。あとの祭り。

「声」を売り物にしている人間なんだから、何か異常があった時にはとにかくまず「声」を守る事を優先して治療に掛かるべきでした。

 というワケで

「声」や「ボイス」をキーワードに都内の病院を検索してみると……


★ 山王病院 / 国際医療福祉大学東京ボイスセンター

http://www.sannoclc.or.jp/hospital/patient/department/voice_c/index.php

★ 東京ボイスクリニック品川耳鼻咽喉科

http://www.tokyo-voice.com/

★ 青山耳鼻咽喉科 / 福田ボイスセンター

http://ma-jibika.com/fukudavoicecenter/index.html

★ 声のクリニック赤坂 / こまざわ耳鼻咽喉科

http://akasaka-voice.jp/

★ 新宿ボイスクリニック

https://voiceclinic.jp/


「山王病院」の「国際医療福祉大学東京ボイスセンター」のように名前が2段になっている所が多いのは、まず普通の「耳鼻咽喉科」があって、後から「声」に特化した部署が作られたという経緯が多いかららしい。

 考えてみれば「耳」と「鼻」と「喉」をまとめて扱ってるって事自体ちょっと乱暴な気もするから、「頭痛外来」みたいに特化していくのは良い事だと思う。

 ……で、私はと言うと?

 一番最後の「新宿ボイスクリニック」に行ってみる事にした。

 大きな理由は特に無い。他の人の意見を聞くには時間が無かったし、駄目だったらすぐに撤収して他を当たれば済む。「T診療所」の例でもそうだが病院の良し悪しなんて行ってみなければわからない。中味に大差無いのなら通う負担を考えて近い方が良いだろうと判断したのだ。ただ1つだけ、

「声専門」で一般的な耳鼻咽喉科治療をしていないという点は良いかなと思った。


「web予約」はわかりやすかった。が、たまたま入れてしまっていた区の健康審査と空きが合わなくって、初診は8月10日と決まった。

 決まった途端に「暑いなあ」と思った。何だかようやぐ動き出した感じがして、やっと天気とかに気が回るようになった。

(続く)

 新しい病院を探す前にこれまでの経過や症状をまとめておこう。

★ 大掃除の時、あまりの暑さにマスクを外してしまった。

★ ほこりの中の何かに感染したのか、風邪でもないのに喉が痛んで咳が出始める。

★「内科」では「風邪」と診断されて「消炎剤」をもらうが効果無し。

★ 2晩3日ほど激しい咳が続き、気がついたら「声」が変。

★「呼吸器科」では「咳ぜん息」の症状と診断。「対ぜん息薬」吸入。

★「T診療所」で診察を受けたが「呼吸器科」の診断がそのまま引き継がれる。さらに、「ストロボスコープ」の観察で食道付近の腫れが見えたため、激しい咳で胃液の逆流があり、それで気管が腫れたのが声の異変の原因ではないかとの診断。結果、

 声の異変に対する積極的な治療は無く、「消炎剤」と「痰を抑える薬」を処方されるだけとなる。

★ 咳は止んで喉の痛みも収まった。が、「声の異変」だけが残って治らない。

 その「声の異変」とは?

 普段の音程よりやや上の音域がかすれ気味、低音が膨らまない、ロングトーンがふらついて途切れがち、などである。力を込めて発声すると喉の奥の「何か」が乗り越えられるようで、ほとんどの種類の仕事は問題無くこなせた。

 上手くできないのは?

 音量を下げて雰囲気で持っていくような、例えば「ささやき掛ける」みたいな台詞やナレーションである。吐き出す空気が少ないとパワー不足で喉の奥の「何か」が越えられない感じで、ちょっとした事でかすれたりひっくり返ったりしてしまうのだ。

 ちなみに、

 前回お休みして抜録りにしてもらったのは「力持ち」の役で、ある線以上の力強い声でしゃべるのが特徴だったから何の問題も無かった。

 もう1本入っていたドキュメンタリー番組の「ボイスオーバー」は年配のお偉いさんのインタビュー・シーンだったからやはり問題無かった、と言うか、

「いやあー、イメージ通りでしたよー」

「え? あ~そ~ですか~? いやはは……」

「かすれ」がむしろ良い方向に働いてくれた。


 2本残っていた仕事が両方とも問題無かったし、普通にしゃべっていると気づく人もほとんどいないもんだから、何だか自分が心配性なだけなような気がする瞬間もあった。が、試してみればやっぱるある音域はかすれる。このまま放っておけば「できない役」とぶつかるのは時間の問題である。

 ぼんやりしている時間は無い。先のスケジュールは真っ白だができない可能性を抱えて仕事を受ける事はできない。こんな状態が続けばあっと言う間に日干しである。

 ……と、そんなこんなを踏まえた上でググってみると……?

 おおおー!

 かつては「T診療所」ぐらいしか無かった狭いジャンルに、いくつもの「耳鼻咽喉科」が看板を並べているではありませんか。

 後で聞いたところによるとその一因は最近の「ボーカル・ブーム」らしい。

 ここ数年の「ボーカル」、特にJポップ方面は元々の日本人の体質には不向きな高音を要求される事が多く、それで無理をして壊してしまう人が多いと……、え?

「喉」ってそんなに声出しただけで故障するものなの……?


 思い起こしてみれば、あきれるくらい激しい声のキャラクターを日々数々とこなしてきた割にゃあ「声のトラブル」というものに遭遇した記憶が無い。せいぜい駆け出しのころに「戦場」の「鬨の声」をやり過ぎて肋骨にヒビが入った経験があるくらいである。それだって喉じゃなく肋骨だ。

 あんまり自分で意識した事は無かったのだけれど、どうやら私は元々並外れて強靱な発声器官を神様から授かっていたらしい。売れる声かどうかは置いといて、少なくとも「出し過ぎ」で故障するという事の無い、かなり「恵まれた喉」だったのである。

 その強さに慣れていたもんだからちょっと判断が遅れた可能性はあるだろう。

「咳」ってものすごく喉に負担を掛ける事なんだなあと反省しつつ、最適な対処をしてくれそうな病院を検索し続ける……

(続く)

 何だかんだ言ってる間に3週間が過ぎた。7月も下旬である。この夏は異常気象でインドよりも暑い日があったらしいのだが、新規の仕事が途絶したストレスでのたうち回っていた私にはあまり感じられなかった。

 症状は、まだ大きく呼吸すると喉の奥がヒューヒュー鳴ったりしたが、突発的に止まらなくなる咳だけは収まっていた。「喘息薬」が効いたという事は、やっぱり「気管支喘息」的な状態に陥ってはいたのだろう。

「その薬が終わる頃には治っているはずだからそのまま来なくて良いですよ」と言われていたので呼吸器科はそれで終わりにした。もはやそういう話ではなくなっていた。


「T診療所」にはその後2回行った。が、2回目からは「ストロボ・スコープ」が無くなって「消炎薬」と「痰切りの漢方薬」が処方されるだけになってしまった。その分診療費がお安くなったのは良いけれど「たすがT診療所だから何とかしてくれた」という展開は望めそうになかった。なんせ態度が気に入らない。

「胃液の逆流なんですけど、やっぱり内科で診てもらった方がいいでしょうか?」

「そんなに気になるんだったら診てもらえばー?」

 万事こんな調子で「治療」へのモチベーションがガシガシ削られていく。

 いつでも混んでいて激務である事は理解できるのだけれど、毎回「また素人が」みたいに蔑まれる理由は無い。困っている人間が偉いとも「患者様」と呼んで欲しいとも思わないけれど、あっちが取り立てて偉いって事もないはずだ。

 恐らく、

 仕事を始めた時から大勢に頭を下げられ続けて対人関係の感覚がおかしくなってしまい、それが職員全体に浸透してしまったとしたのだろう。

 かつて多くの先輩が治療を受けた所だし、いまだに通っている人も多いからあからさまに非難めいた事は言いたくないのだけれど、私はもう2度と行かないし人にすすめる事もしない。

 ちなみに、

 その後スタジオで「T診療所」の話をしてみたら出るわ出るわ。ある年代以下の人間はほぼ例外なく嫌な思いをしているようだ。それらの話を総合してみると……

 どうやら「T診療所」で「声の仕事をしている人間」というのは「二期会のオペラ歌手」とか「大劇場の舞台俳優」とかの事らしい。対して「声優」とは?

「普段、節制もロクな調整もせずに無理な発声をして自ら喉を壊し、ライブの直前になって駆け込んで来てはグダグダ泣き言を言うバカな若者たち」

 というくくりになってしまっているらしいのだ。

 誰だ? 最初にやらかしたヤツ!

 と言うわけで、発症から1ヶ月も経って新たな病院探しである。

 というわけで、本当は収録のあるはずだった7月17日の午後、私は有楽町駅に降り立った。「T診療所」に行くためである。

「あそこ」すなわち「T診療所」とは、「声」を商売道具にしている者なら1度はその名を耳にした事があるというくらい超有名な耳鼻咽喉科である。

 先代の院長先生はご自分でも歌唱をたしなまれ、その確かな技術でオペラ歌手の方々にはカリスマ的人気があったそうだ。今は代替わりしてご子息が継いでおられると聞いていた。

 この仕事を始めて以来あちこちでその名を聞き、いつかは行く事になるかもしれないと思っていたのだが、ついにその時が来てしまったのである。


 災害認定された猛暑の真っ只中。道行く人はみなアスファルトの照り返しに顔をしかめていたが、仕事に穴を開けて動揺していた私にはあまり感じられなかった。

 とある駅前のビルの地下に病院や診療所の集まるフロアがあって、「T診療所」はその一番奥にあった。「T」とは別のビルの名前なのだが、あまりにもその名で周知されてしまったためにこの場所に移転した後も前のビルの名前を残さざるを得なかったき……あ、その逸話、看板に書いてあるわ。


 昼イチだと思って入ってのだが待合室はもう8割方埋まっていた。と言っても小さい診療所だから10人いるかいないか。外の廊下に椅子が何脚か並べられていたから、ピーク時にはそこまであふれるのだろう。待ち時間の長さを覚悟する。

 あらためて見回してみると全ての患者さんが声の関係者というわけではなさそうで、中には工事現場の作業服姿の人もいた。粉塵被害とかだろうか?

 健康保険証を出して「問診票」を書かされるのも他の病院と変わらない。

 やっぱりしばし待たされて、名前を呼ばれたと思ったら診察室の前で「問診票」を確認するための予備診察だった。ナースとは違う制服だったからインターンか医師なのだろう。ものすごく仕事のできそうな女性がものすごいスピードで質問を浴びせかけてきた。

 良く聞くと「問診票」の内容を再確認なのだが、あまりにも矢継ぎ早なのでいくつかの質問はは聞き取れず、適当に答えてしまった。

 やっと解放されて待合室に戻ってみると患者さんが増えていた。立って待っている人までいる。さっきの早口は無愛想とか機械的と言うのではなく必要なスピードだったのだ。多分あのスピードで片っ端から処理していかないと間に合わないのだろう。


 2度目に呼ばれてようやく「診察室」に入ってみると、2代目とおぼしき先生がいらした。案の定、すでに疲れてご機嫌斜めに見えた。

 とりあえずそれまでの流れを説明して「呼吸器科」で処方されていた薬を渡して見てもらう。ちょっと強い薬だと聞いていたから念のためにお伝えしたのだが、今思い返してみるとソレが良くなかったのかもしれない。

 並んだ薬をぱぱっと見渡すと先生は言った。

「はあー、なるほど、では見てみましょう」

 いきなり固い棒状の道具が出てきたがどうやら「内視鏡」らしかった。

「はい体を前に倒してー、イーって言ってー」

「い~~~~おえっ」


 余談だが、私は人より「嚥下反応」が早いらしい。

 食べ物を食道に送り込むと人よりも早く「ゴクン」が始まってしまう。単なる体質的な問題なのだが、どう言うわけだか「内視鏡」を使う先生にはこの反応を毛嫌いする人が多い。ちょっと差し込んで「おえっ」となると「ちっ、何だよ根性ねーな」みたいな雰囲気になってしまう事が多いのだ。

「棒カメラ」では上手く撮れなかったのかどうか、今度は細くて柔らかいヤツが出てきた。それが噂の「ストロボ・スコープ」らしかった。「声帯」の動きをスローモーションのように観察できる内視鏡である。

「はい力抜いて力抜いて力抜いてー……」

「ストロボ・スコープ」は「胃カメラ」や「棒カメラ」に比べるとずっと細くて柔らかいのだが、差し込まれればやっぱり違和感がある。で、ちょっと「おぇっ」となってしまって、やっぱり嫌な空気になってしまった。

「舌打ち」が聞こえたのはきっと気のせいだが、小さなため息ははっきりと聞こえた。そんなこんなで「観察」は早々に切り上げられてしまった、ような気がする。

 駄目な患者でスミマセンと気持ちが縮んできた。


 苦労して撮った「声帯の画像」はかなり傾いていて、素人の私も気に入らないくらい見づらかった。

「んー、咳が激しかったんですよね?」

「はい」

「確かに腫れていますねえ」

「腫れている場所は……」

「話 最後まで聞いて!」

 私の質問をぴしゃりと制して続けられた先生のお話によると……

 確かに気管支内が腫れはあるが、それだけではなく「食道近く」にも腫れがある。もしかすると激しい咳で少量の胃液逆流があって、それが気管支内に入ってしまったのかもしれない。そんなこんなで腫れた範囲が広くなって「声」にも影響が残っているのではないか、という見立てだった。

「そんな事があるんだろうか……?」

 何だかスッキリしなかった。自分が現に困っている症状と聞かされた状態がストンと一致しないのである。でも何か聞いてまたキレられるのは嫌だから黙っていた。で、結局、「消炎剤」と痰を切れやすくするための漢方薬をありがたくいただいてビルを出る。

 何だか腑に落ちない感じは電車で事務所に向かうまで続いていた。


「プロダクション・エース」には入ったばかりだったから、デスクの女性陣は皆私の地声に慣れていなかった。だから試しにしゃべってみても一様に「だいぶ良くなりましたねー」とい言ってくれるばかりだった。ところが、つきあいの長いベテランマネージャーに話しかけてみると途端に「まだちょっと残ってますねえ……」と顔が曇った。

 微妙ではあるが、少なくとも「問題ありません」と胸を張って言える状態ではない。話し合いの結果、新規の仕事は全面ストップと決まった。急な休みが続けば会社の信用に関わるのだから致し方ない。

 自由業の厳しさがひしひしと身に沁みてきた。

(続く)

 7月12日金曜日、事務所にて来週早々の仕事の台本とビデオを受け取る。

「妖怪ウォッチ」は無茶な発声が必要になる場合が多いから発症後すぐ病院に行ったのだが、こんなに長いこと治らないとは思わなかった。

 恐る恐る台本を開いてみると……

 あー「キツいやつ」だー。

 もそもそ悩んでいる時間は無い。事務所に調子が悪い事を伝え、万一の場合は先方に連絡してもらうよう段取りをつける。

 しかし、

 事ここに至ってなお、私は「風邪」が元の「咳ぜん息」が悪さをしているものと信じていた。なぜなら数年前に風邪がこじれておかしくなった時、あの「呼吸器科」のN先生の見立てが速くて正確だったからだ。今回も、元の「咳ぜん息」さえ治せばそれにつれて症状も改善すると信じていたのだが……


 7月16日月曜日

「万一」って割と簡単に起きるんだね。

 間に合わなかった。

 真面目に、正確に薬を飲み続けたのだが、それでも「声」は治らなかった。かつてこんなに長く不調を治せなかった経験が無かったので判断が遅れてしまった。

 週明け朝イチで事務所に連絡。

 収録不可を連絡していただき、他の受注も一旦ストップである。

 生まれて始めて自分の体調で「本番」を休む事になってしまった。

 現実のこととは思えずしばしぼんやりしてしまう。が、こうなってしまったからにはしかたがない。まさか1週間後の「抜録り」まで休んだらシャレにならないから、最速で症状を改善する道を選ばなくてはならない。

 となると「あそこ」しかないだろう。

 ああー、ついに「あそこ」かよー……


 翌7月17日

 本当は収録のあるはずだったその日、私は有楽町に向かった。

「あそこ」、すなわち、「声の仕事」をしている人だっら1度はその名を耳にするであろう超有名耳鼻咽喉科「T診療所」で診察を受けるためである。

「呼吸器科」では「出した薬を使い切ったら来るように」と言われていたのだが、これほどまでに治らないからには、どこかがピンポイントで「悪いもの」が定着しているに違いない。それが何で、どう退所すれば良いのか? 来週の収録までには是が非でも確かめ、対処なくてはならないのだ。

「呼吸器科」で処方された薬を携えつつ、私は恐る恐る「T診療所」の待合室に入った。

 ……と、ここで、

「何でプロが自分の声の調子もわからないんだよ」と思った方に弁明しておきたい。


「声優」と一口に言っても色々なタイプがあって、特に大きく分けられるタイプに「1声型」と「7色型」がある。「ああ あの声の」と驚くか「え、あの役も?」と驚くかという違いだ。

 私はどちらかというと後者で、発声器官のコントロールで日常的に5人くらいを出し分けている。だから部分的に調子が悪いくらいだったら難なくできてしまう「役」があったりするのである。

 今回「不調」なのは「音程」で言うと中音域から高音域に移行する、いわゆる「ミドルボイス」の一部分だから、「音域の広い持ち歌がある歌手」だったら「ライブ中止もやむなし」ってくらい致命症だろう。

 ところが、「自転車操業の7色タイプの貧乏声優」の場合は、5人チーム中のたった1人だけがやや不調という程度の雰囲気になってしまうから、まことに判断しにくい状況に陥ってしまうのである。

 一旦お引き受けしたお仕事をキャンセルするくらいだったら、多少調子が悪くても無理してその日に強行してしまった方が迷惑度はずっと低くなる。そう思うとついつい強行しがちになってしまうのである。

(続く)

 今年の夏はいきなり酷暑で始まった。

 元々「寒暖差」には弱いと言うのに、行き先によってエアコンの効きがまるで違うものだから、どんなに注意していても体調が崩れ気味になってしまう。乾燥と湿気の断続で声の調子が維持できない。で、6月の最終週だったか7月の頭、まあとりあえず部屋の掃除でもしておくかと思い立つ。

 最初はマスクをしてあちこちのほこり取りなどしていたのだが、その内暑くてマスクを外してしまった。今にして思えばそれがいけなかった。

 7月6日前後、「喉」が痛みだし「咳」が出始める。7月5日の「本番」までは普通にしゃべれていたのだから、その後急速に何かが進行したのだろう。

「痛み」は鼻孔と喉が奥で交わる辺り、いわゆるアデノイド周辺。

「痛み」と「咳」以外の症状が無い事にもっと気を回せば良かったのだが、まあいわゆる「風邪」の時の痛みと同じだったからとりあえず近所の内科に行く。

 この時はまだ「こういう時は早めに対処しておかないと」くらいにタカをくくっていた。

「風邪らしいんですが」

「ここんとこ多いんですよ。エアコンが急に入ったからでしょうねえ」

「じゃあまあそういう事で」

 と「消炎剤」を出してもらう。


 処方された薬を飲む。が、あんまり効かない。

 そうこうしている内に「痛み」は「気管全体の痒み」に変わり、「咳」が、今まで経験した事の無いレベルに進行した。急に奥からはい上がるように気管が痒くなってヒューヒュー鳴ったと思ったら爆発的に咳が出て止まらなくなってしまうのである。

 かつてない個所が炎症している感じ。それで眠れない夜が2、3日続いた。

 すでに「声」が変わり始めて焦る。来週早々の本番までに治そうと思ったら今の内に積極的な治療をしなくてはならない。しかし、この時点でもまだ私は何かの「一時的な症状」だと思っていた。


 7月10日、ここで失敗の2つ目。「一時的な症状」なら原因を叩こうと思って「呼吸器科」に行ってしまったのだ。この時点で「発声」を診てくれる耳鼻咽喉科的に行っていたら、事態はもう少し何とかなっていたかもしれないのだが後の祭り。

 結果的に、自分が一番困る患部を1週間近く放置してしまう格好になってしまった。

「風邪ではないような気がするんですが……」

 で、呼吸器系の検査。

 今にして思えば全ての検査が「気管支」を向いていて「声帯」は全く無視されていた。そもそも「呼吸器科」には「声帯」を診る装置が無いのかもしれない。

 結局「咳ぜん息」と診断されてその系統の薬を処方され、それから約4日間「対咳ぜん息」用の吸引剤を吸い続けた。それでとりあえず「気管支」方面の「痛み」は収まったのだが「声」が戻らない。

 しゃべれない事は無いのだが高音が伸びず音程が不安定。時々かすれるような異音が混じる。とにかくいつもの自分の声ではない。


 それは今までに経験した事の無い「治らなさ」だった。

 私は新陳代謝にだけは自信があって、風邪だろうが炎症だろうが10日以上長引いた経験が無い。それですっかり読み違えてしまったのだ。

 このままでは来週早々の「本番」に間に合わない。背中の下の方から嫌な感じがはい上がってきた。

(続く)